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ダーラム(Durham)は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州中央部に位置する都市。同州ダーラム郡の郡庁所在地で、市域は隣接するオレンジ郡およびウェイク郡にもまたがっている〔Subcounty population estimates: North Carolina 2000-2006 . Population Division, United States Census Bureau. 2007年6月28日. (カンマ区切りテキストファイル)〕。人口は228,330人(2010年国勢調査)で、シャーロット、ローリー、グリーンズボロ、ウィンストン・セーラムに次ぐ州第5の都市である〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年.〕。隣接するチャペルヒルを含むダーラム・チャペルヒル都市圏は約50万人、リサーチ・トライアングルと呼ばれるローリー・ダーラム・チャペルヒル広域都市圏は約190万人の人口を抱えている(いずれも2010年国勢調査時)。 古くはタバコ産業や繊維産業で栄えた。やがてそれらの産業は衰退したが、1950年代にリサーチ・トライアングル・パークが設置されると〔Where is RTP? Research Triangle Foundation of North Carolina.〕、デューク大学を抱える大学町として、また全米有数のハイテク産業の研究・開発の拠点として、ローリーやチャペルヒルと共に発展していった。 ==歴史== ダーラムの歴史は1853年、ローリーとヒルズボロウを結ぶ鉄道の駅設置の候補地となったことから始まった。燃料に薪を用いていた当時の蒸気機関車は燃料補給のために頻繁に停車しなければならず、薪や水を補給する基地ともなる駅が25-30マイルごとに必要とされていた。 この近辺には1827年にハーンドンの郵便局が、また1836年にはプラッツバーグと呼ばれる集落ができていた。しかし、プラッツバーグの地主は鉄道用地として土地を売却することを拒んだ。そのやや北西、当時はまだオレンジ郡の一部だった地に住んでいた内科医バーレット・S・ダーラムは、鉄道用地として自らの所有していた土地を寄付した。やがてその土地を利用して設置された駅はダーラム駅と名付けられた。鉄道が走るようになる以前は、現在ダーラムとなっているこの地は一面の農地で、ヒルスボロウ・ロードに沿って通行者(特に家畜運送者)を対象とした商店が何軒かあるのみだった。このヒルズボロウ・ロードはやがて国道70号線となり、20世紀後半の州間高速道路開通に至るまでノースカロライナを東西に横断する主要な交通路であり続けた。 ダーラム駅を中心としたコミュニティの発展は南北戦争前にはゆっくりとしたものであったが、南北戦争後には急速なものに変わった。1869年にはダーラムは正式な市になった。ダーラムの成長の要因となったのはタバコ産業の発展であった。1865年4月に南軍が敗れるまで、ダーラム駅のすぐ外側にあったベネット・プレイスの近くに南北両軍がキャンプを張っていた。しかし前線においても、兵士たちは自由にこの地の特産であったタバコを吸っていた。この地のタバコは他のタバコに比べて風味が軽かった。南北戦争が終わると、退役した軍人はノースカロライナで吸ったタバコを故郷でも手に入れたいと欲した。グリーンのタバコ会社には、ダーラムのタバコを注文する注文書が数多く届いた。グリーンとパートナーを組んだW・T・ブラックウェルはタバコ会社の名前をブル・ダーラム・タバコ会社(''Bull Durham Tobacco Company'')に改めた。ブル・ダーラムの名は、コールマンズ・マスタードがイングランドのダラムで生産されているとブラックウェルが誤って思い込んでいたということに由来していると言われている。このブル・ダーラム・タバコ会社と、ワシントン・デュークのデューク・アンド・サンズ・タバコ会社の急速な発展により、ダーラムの街も急速に成長していった。 初期のダーラムの成長を支えたのはタバコ産業であったが、やがて繊維産業が追随した。ダーラムの西側と東側には複数の繊維工場が造られた。また、1890年頃から1930年頃までの間にかけては、商用・住居ともに、初期のダーラムにおける建築物の多くが建てられた。 1924年には、ジェームス・ブキャナン・デュークが父ワシントン・デュークを讃えて博愛主義的な財団を設立し、ダーラムのトリニティ・カレッジを支えた。やがてトリニティ・カレッジはデューク大学と名を変え、1マイル西に広大なキャンパスと病院が設置された。もとのトリニティ・カレッジは、現在ではデューク・イースト・キャンパスとして知られている。 また、ダーラムではアフリカン・アメリカンのコミュニティも発展した。市の中心部から南に位置していた、ヘイティー(Hayti)と呼ばれた地域では、20世紀初頭にアフリカ系の経営者がそのビジネスを成功させていた。その中でも最もよく知られたものには、ノースカロライナ相互保険会社(North Carolina Mutual Insurance Company)や農工銀行(Mechanics & Farmers' Bank)などがあった。これらの金融機関が集中するパリッシュ・ストリートは、「黒人のウォール街」と呼ばれたこともあった。こうした強いアフリカ系コミュニティを抱えるダーラムでは強い公民権運動が起こった。座り込みは各所で見られた。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは公民権運動が難航したときにこのダーラムの街を訪れた。しかし、この強いコミュニティも、1960年代にフリーウェイを建設するにあたってヘイティー地区の一部が取り壊されるのを防ぐことはできなかった。都市再生資金を利用したフリーウェイの建設によって、ヘイティーのみならず、モアヘッド・ヒルズ、ウェスト・エンド、ウェスト・ダーラムなどの歴史的な地区も取り壊され、多くの歴史的建築物が失われた。 20世紀も中盤にさしかかると、ダーラムの経済を支えていた産業は軒並み衰退していった。1930年代には繊維工場が閉鎖し始めるようになった。1960年代に入ると、かねてよりのタバコ産業における競争の激化に加え、喫煙そのものも抑制される傾向が強まったことにより、ダーラムのタバコ産業は減収に転じた。1958年にリサーチ・トライアングル・パークが設置されると地域一帯がハイテク産業の研究・開発の中心地として潤ったが、それでもダーラムにおける経済効果はローリーやケーリーほどではなかった。それどころか、郊外への人口流出はダーラムでも起こり、ダーラムの商業・経済の中心としての地位は徐々に失われていった。しかし1970年代に入ると、リサーチ・トライアングル・パークに近い市の南部で住宅開発が進み、またダウンタウンの再開発も相まって、ダーラムは再び成長を始めた。現在のダーラムにおいては、リサーチ・トライアングル・パークの企業はデューク大学と並んで、ダーラムで最も主要な雇用主である。 1975年には、ヘイティーのコミュニティが生み出した遺産を保存し、またアフリカン・アメリカンの世界文化に対する貢献の理解を目的としてヘイティー・ヘリテージ・センターが設立された〔St. Joseph's Historical Foundation at Hayti Heritage Center .〕。1994年にはダーラム・ブルズの本拠地となる野球場が建設された。アメリカン・タバコ会社(旧ブル・ダーラム・タバコ会社)の工場も2003年に復元された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダーラム (ノースカロライナ州)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Durham, North Carolina 」があります。 スポンサード リンク
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